福岡伸一『動的平衡:生命はなぜそこに宿るのか』 木楽舎 2009年

動的平衡

動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

著者の名を私のような門外漢も含めた世の中に知らしめた前著『生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)』には、えらく感動させられた。決して簡単ではない奥の深い話を「こういう語り口で語れるのか」と唸らせられた。

その「こういう語り口」がどんな語り口なのかというと、一応、叙情的な、とでも形容すべきなのかもしれないが、私の拙い表現では上手に伝えられないので、読んだことが無い人には是非にとお勧めすることしかできない。

その前著の中でも鍵となっていた概念で、かつ私が最も面白い部分と思ったのが、本書のタイトル『動的平衡』である。

この概念は、著者の生命観を表すものであり、もともとは、ユダヤ人科学者ルドルフ・シェーンマイヤーの研究がオリジナルであるようだ。

本書は、「脳」、「ダイエット」、「ES細胞」などの話題を取り上げながら、この鍵概念である「動的平衡」に徐々に近づいていくというアプローチがとられている。それぞれに、「動的平衡」にとどまらない、色々な示唆に富むエッセイであり、それぞれを単品として読んでも面白い。

それぞれに興味深いのだが、ここでは「動的平衡」をなぜ私が面白いと思ったのかに話を絞っておきたい。

分かりにくくなるのを承知で、あえて後半に出てくるシェーンマイヤー博士の研究を簡単に要約しておこう。

シェーンマイヤーは、アイソトープ同位体)を使って、アミノ酸に「しるし」をつけ、マウスに3日間食べさせた。

普通に考えれば、食べたものは、体内で燃やされて、残り排泄されると考えられる。しかし、シェーンマイヤーが発見したのは、意外にも、アイソトープによってしるしがつけられたアミノ酸がマウスのあらゆる場所(脳も含めて)のタンパク質の一部となっているという事実だった。しかも、マウスの体重は増えていなかった。

これが示唆するのは、単に食べたものに由来する新しいアミノ酸によって体内のタンパク質が置き換わったということを意味するだけでなく、長い期間で見れば、私たちは私たちを構成している分子のレベルで言えば、何一つ同じでない可能性があるということである。

これが、著者が言うところの、生命活動の本質が「流れ」の中にあるということだ。


その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が「生きている」ということなのである。シェーンハイマーは、この生命の特異的なありように「動的な平衡」という素敵な名前をつけた。(p.232)

ちなみに、こうすることが、生命が「エントロピー増大の法則」に抗うための戦略なのだという。前著では以下のように説明されている。


エントロピー増大の法則に抗う唯一の法則は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろ仕組み自体を流れの中に置くことなのである。つまり流れこそが、生物の内部に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになるのだ。」『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書 2007年: 167)

動的平衡と制度論

私がこれを面白いなと思ったのは、この概念を拡張して、制度論にも使えるのではないかと思ったからである。

社会科学の様々な分野において、「制度とは何か」というのは伝統的なテーマだと思うのだが、皆が納得する回答というのものは、あるようでない。

私が学生時代にかじっていた国際政治学の分野でも、国際レジームという制度の一種に対する議論が盛んだった。

なぜそれが重要なのかといえば、国際レジームを含め、制度というのが人間社会において極めて重要な役割を果たしているからである。にもかかわらず、その実体はとらえどころがない。

たとえば、我々が日常的に使っている貨幣制度という立派な制度がある。

でも、「じゃあその実体は何か」と聞かれた時、何と答えれば良いのだろうか?千円札の紙幣?日本銀行?為替レート?人の人生?どれをとっても中途半端である。

そういうとらえどころの無いものをとらえるためのポピュラーな考え方の1つとして、制度とは、間主観的に形成されるものであるという考え方がある。これは、制度というものを、客観的に「これ」と指し示すことができるモノとしてではなく、人々が、それぞれ半ば勝手に「こういうもん」と思っている主観的な考え方同士の、その「間」で形成されるもの、としてとらえる考え方である。

もっと詳しいちゃんとしたら制度論については、『制度論の構図 (創文社現代自由学芸叢書)』を見ていただくとして、これが「動的平衡」と一体何の関係があるのかに話を戻そう。

別にムツカシイことを考えているわけではなく、動的平衡という概念が、制度にも当てはまるのではないか、ということである。

制度が人々の頭の中にあるものから形成される以上、人々の考え方が変われば、制度も変わる(厳密にはそう単純でもないのだが)。それが、常に不変の形をしてることはありえない。つまり、制度もまた、絶え間なく続く変化の流れの中での平衡状態にあると考えることもできるのではないのか、ということである。

地球温暖化に関するレジームと動的平衡

「そんな言葉遊びじみた概念的な話をまた・・・」と思われるかも知れない。確かにその通りだが(おっと)、こういう考え方で制度を見ることが、実は大事だと思う。

たとえば、このブログでもたびたび取り上げている国連気候変動枠組条約京都議定書によって構成される地球温暖化に関する国際レジームも制度の一種である。制度の場合、ややこしいのは、全部が全部人々の頭の中にあるわけでもなく、部分的には実体にも拠らなければならないという点だ。地球温暖化に関する国際レジームの場合は、国連気候変動枠組条約京都議定書の条文という実体らしきものが一応は存在し、それらが機能するために存在する条約事務局も実在の組織である。また、毎年開かれる締約国会議も、会議という実体はある。

でも、それらをいくら横一列に並べたからといって、現状の地球温暖化に関する国際的な制度の全体像が見えてくるわけでもない。それは、大きな流れの中にある「何か」なのだ。同じ条文でも、時を経れば解釈が変わることがある。一見、よく分からない用語でも、過去の歴史に積み重ねによって行間が埋まると大きな意味を持っていたりする。

国連気候変動枠組条約京都議定書を、そこにある条文だけで理解しようとしても、あんまり意味がない。そういうスナップショット的な見方で見てしまうか、それとも「動的平衡」的な見方での全体像を意識できるかで、自分たちが歴史のどういう過程の中にいるのかを意識できるかどうかも変わってくるのではないかと思う。

福岡氏が考えている「動的平衡」からはちょっと飛躍がすぎるかもしれないけれど、この辺については、またもう少し考えがまとまったら書いてみたい。