伊坂幸太郎 『モダンタイムス』 講談社文庫 2011年

モダンタイムス(上) (講談社文庫)

モダンタイムス(上) (講談社文庫)

モダンタイムス(下) (講談社文庫)

モダンタイムス(下) (講談社文庫)

この作品の前の時代を描いた『魔王』が個人的には伊坂作品の中でも特に好きだったので、本作も文庫化されるのを心待ちにしていた。

心待ちにしていたにしては、本屋で購入してから読むまでに随分と時間が経ってしまったが、先週のイギリス出張の行き帰りの飛行機の中でようやく読了することができた。

伊坂氏本人がどこまでそれとして意識したのかどうかは別として、本作のテーマは「システム論」であり、還元主義・個人主義に対置されるような「構造主義」だ。なんて書くと難しく聞こえてしまうが、作品自体はそんな小難しい言葉で高尚ぶって話を展開しているわけではない。伊坂作品らしい、伏線と、独特のユーモアと、飄々とした会話の中で、得体のしれない「世の中の仕組み」が、個人を翻弄していく様と、それにそれぞれの形で抗う主人公たちの姿を描いている。

あらすじを書くとネタバレになるところもあるので難しいが、主人公の渡辺拓海は、一回のシステムエンジニア。ある時、先輩である五反田が途中で投げ出してしまったという仕事を引き継ぐことになった。それは、なんの変哲もないウェブサイトの登録画面に項目を追加するだけの簡単な仕事のはずだったが、そのウェブサイトの変更のために、ちょっとその仕組みを調べ出したことで、周囲に変なことが置き始める。特定の言葉と言葉を組み合わせて「検索」をすると、何かが始まる。やがて、主人公は、誰が黒幕なのかも分らない、巨大な「仕組み」に翻弄されながらなんとか活路を見いだそうとするが・・・というお話。

書いてみたら、びっくりするくらい魅力が伝わらない感じになってしまったので、これを読んで「つまらなそうだ」と思ってしまった人は、ぜひ本屋で下巻の「解説」を読んで欲しい。

※ここからはほぼネタバレに近いので、あまり中身を知りたくない人はご注意下さい。

この作品には、悪いヤツ、と呼べる人物は登場するが、「悪者」は登場しない。だが、主人公とその周辺の人たちは、次々にいろんなことに巻き込まれ、中には酷い目にあう人もいる。今の世の中の仕組みとして「そういう風になっている」から。よくある冒険小説のように、最後に「悪者」が出てきて、そいつを倒してハッピーエンド、とはならない。

作品自体は、いつもの通り、ファンタジックな内容で、寓話的な雰囲気があるのだけれど、描いているものは、現代の社会をよく表していると思う。

現実の世の中を見てみると、貧困問題にせよ、紛争にせよ、環境問題にせよ、多くの人々にとって悪いことは確実に起きているけれど、「こいつが悪い」と、全ての責任をおっかぶせることができる「悪者」がいることは稀だ。もちろん、これは悪いヤツがいないということじゃない。悪いヤツはいるのだ。しかし、それよりも大きな、何だか知らないけれど、得体のしれない世の中の仕組みによって、突き動かされて、悪いことが起きている部分もある。

そんな時、人々はどうするのか?

この作品の面白いところは、様々な登場人物たちの口を借りて、いろんな対応の仕方が語られることだ。

作中には「井坂幸太郎」というナンパな作家が登場する。あとがきを読むと、この登場人物は、単に名前を考えるのが面倒になったのでこの名前にしたとの説明があるが、確かに、実際の伊坂氏がこんな感じ人物だとしたらファンも減ってしまうのではないかと思われる感じの人である。

ただ、その彼の台詞の中で、これは伊坂氏自身が語りたかったことなのじゃないかな、と思わせる部分がある。そのナンパな「井坂」氏が、「小説で世界を変えられると思っていたけど、変えられないことが分かってきた」という独白があった後にこう語る。

「いいか、小説ってのは、大勢の人間の背中をわーっと押して、動かすようなものじゃねえんだよ。音楽みてえに、集まったみんなを熱狂させてな、さてそら、みんなで何かをやろうぜ、なんてことはできねえんだ。役割が違う。小説はな、一人一人の人間の身体に染みていくだけだ」

そして、その後に、このように語るのだ。

「だから、考えを変えた。一人くらいに。小説で世界なんて変えられねえ。逆転の発想だ。届くかも。どこかの誰か、一人」

言葉とは裏腹に、世界を変えることを諦めたわけじゃない雰囲気が伝わってくる。諦めたわけじゃなくて、目の前にある、一つのことを変えることから始めようという、そんなメッセージのような気がした。

これは、本作を通じて、もっと言えば、前作である『魔王』を通じて読むと、そんな気にさせられる。

最後の最後に、主人公である渡辺拓海は意外な選択をするけれども、それも1つの選択。「勇気はあるか?」という、序盤で出てくる台詞に、面白いオチがついてる。